タイトルマダイ

人はいつか死にます。みてください。

Now praying

 

 うつ病になりたくない。うつ病になったらおしまいだ。と思うけど、これを人に言ったら怒られるか、笑われるんだろう。実際、笑い飛ばされた。

 

うつ病になりたくない理由は、今の時期になったら、何もかも壊れるなあというのが大きい。いつやっても壊れるのは変わらないけど、今は特にまずい。特にまずいから、色んな人と話したい、遠くへ行きたいのにあまりできない。友達も多くないし、皆さん忙しいのでまともに話もできないし、元来自分はつまらない人間だから、6月とかになったら、連絡取る相手親だけになるんじゃないかと思ってる。

 

よって状況は恵まれないけど、自分はうつ病になりたくないから、うつ病になりたくないと大きな声で言いたいのだ。うつ病になりたくないと宣言したい。誰かに、笑われたくも、怒られたくも、泣かれたくもないけど、それでも誰かの耳に入れてもらいたい。

 

そういうことってあるじゃないですか、あるはずなのにどこにも言う場所がない気がしてびっくりしてしまった。自分勝手で駄目だと思うけど、これは祈りのような位置付けと捉えてもらって全部全部許されたい。

愛はどこにある

 

4月に入った。

 

好きな人にドキリとさせられた状況を思い出そうとしても、よく思い出せなくなった。大事なものは意外と簡単に手に入ったように思えるし、その代わり失う時も、音なく失った。思い出せなくなった自分はこれからどうやって自分のことを温める術を得るのか。

 

人に会う機会が格段に減った。といっても、4、5日前には続けて人に会ったりしてたけど、もはやそれは自分にとって過去のことになっている。

 

自分は、愛をよく知らない人間だと思ってるけれど、人に会いたいと漠然と思ったりするのは、なんでだろう。会ってもろくにうまく話せなくて、つまらないという結果みたいなのも見えてる。その時に、やっぱり自分はこの人のことそんな好きじゃないのかもなと思ってしまう。

 

前も書いた気がするけど、曲の歌詞にある、いなくなって初めて大事さに気づいたという表現、どうせ戻ってきても大事さをまた見失うよとかいう感想を持ってしまう人間だし。それでもとっても会いたいような気がするのはなんでだろうかと書こうとした。

 

 

そしてこの文章を書いてて、これが依存かと自覚した。会いたい人っていうのは、半分友達で半分好きな人のことだけど、依存とかじゃなく本当に好きなんだしと思ったけど、これは依存です、依存。美化した形で自分は相手を固めてる。こんなことをして申し訳ないような気がしてくる。

 

やはり、自分のテーマは、人を愛することですね。人を愛そう。人を愛すことは自分をまず愛すこととか見たけど、目を背けたいことが多すぎるね、もう無理だね。それでも、嫌われたくはないから愛してね。ちゃんと愛せないけど、愛してね。ついでに、愛を自分なりに、考察し、定義してて偉いって褒めてほしい。

 

 

 

1年は会う予定がない人のこと

 

 

カレンダーが部屋にないので、日付のことがよく分からない。勉強もろくにしていない。アニメ、映画を観たり、音楽を聞いたり、本を読んだり、完成しなくて誰にも見せられない絵を描いている。

 

前にクレープを食べた時、その店の2つ用意されていた箱ティッシュの1つが自分が使ったタイミングで切れて、友達と、いや好きな人なんだけど、「切れたことを店員の方に言った方が良いだろう。」となった。

そして店を去る前に、店員の方にそのことを伝えたら、『????』という反応をされた。そんなことを言われても困るとか、そういう感じの。1人で食べにきてて、これをやられたら、自分の心は、もうあの店行かないぐらいの勢いで死んだと思う。一緒にいた人がいて良かった。

 

店を出た後、口から出た言葉は『社会』だった。その日、自分の良心は、社会に裏切られた。

 

そんなわけで、社会とは相容れないのだと気付かされてしまった。しかし、自分は社会と関わっている。さらにしかし、自分は浪人生活により、クレープ屋に行く機会はない気がしてるし、社会とこの1年会うことはなくなるんでないだろうか。そしてこのままニートになると、社会さんとは二度と会わないのだ。

 

 社会には会わないといけない。まともに呼吸するためとかそういう理由で。長い人生を、よく生きたいがための浪人を選んだ。しかし、浪人、ニート最前線に位置する。恐ろしいなあ。社会に戻れないことを、なんとも思わない価値観をこれから身につけないことを祈るばかり。

 

 

 

 

 

また意味の分からない、大げさな文章を書いた。最近よく思うことは、何にも肩書きがなくても愛してくれる人がいる素晴らしさです。浪人生になっても、普通にラインを送ってくれたり、話しかけてくれる人がいます。これは愛以外のなにものでもないから、自分も愛のことなんか考えなくても、愛という単語を知らなくても、相手を愛したいのです。

 

 

 

表しがたい

 

どんどん遠くに行ってしまう人たちに、『行かないでほしい』と言って、足を引っ張りたくなってしまう。

 

自分の目で見る皆さんは、髪の色も前より明るくなったし、肌も綺麗だから、前日に食べた晩ご飯もきっと美味しい味がしたんだろうなという気がしてしまうんです。それがすごく、羨ましい。羨ましくて、少し憎い。

 

『 行かないで』とぼろぼろ泣いても、自分は美少女じゃないので、みんなスタスタ去っていく。優しい人は、5分くらい慰めて去っていく。残っているのは縁の切れない家族くらいで、縁は切れなくても、恩は感じていないからもう駄目かもしれない。そういえば、恩を感じてないなんていう自分は、人もまともに愛せないのかもしれないなと思い至った。

 

他人を愛せないのに、他人に愛されたい。

全く勉強をしてないけど、大学に受かりたいと思うくらいには厳しい気がする。

 

どうすればいいのかという気持ちで書いてみたけど、どうすればいいかなんて思ってないことに気づいた。ただ、同じような人にとって共感があれば幸いだ。

 

自傷的想像

 

 もう2度と若さを得ることはないだろう。シャワーを浴びるために鏡を見ると、自分がもうなにかを得るということがない気がした。

 

実際は、なにか得ることなく終わる人生ではないと思うし、そう思いたい。でも、もう目に見えた行き止まりを、蟻のような大きさの自身がのろのろと、前に進んでるような気しかしなくなってきた。人間の大きさに戻ることはない気がしてる、壁を壊す力も蟻なのでない。そんな中で得られるものは、今まで得てきたものより価値が変わりやすかったりするものではないんだろうか。そんなものを得てもなあ。

こんなことを書いても、とりあえず、大学に合格しろって感じのことを思われるだけだな。

 

話は変わり、この前、好きな人に会いました。ご飯を食べに行って、色んな場所で海を見た。とても良かった。素敵だった。とてもとても良かったので、長く長くメモに書き留めた。終わったあとに来たラインは何回か見返した。ラインでは、今度はどうこうって話も出してくれて、今度を考えてるのは自分だけじゃないのだと思えて嬉しかった。

 

何もない街だけど、色んなところに行ったし、たくさん歩いたし、その日は恋人同士みたいだった、本当に。相手は2人で歩いてるとき、誰かに会うことを極端に恐れていたので、自分と歩きたくなかったのかもという気がしたけど。もはやそういう所も嫌いじゃないと思った。自分がそのことを嫌いかどうかなんて相手の知ったことではない訳だけど。

 

それでも何日か経ち、現実的になって、その日は若さのピーク的出来事のあった日という位置付けになりつつある。今度とか、言ってくれたけど、今度なんてどこにもなくて、相手にもう何かを与えることも、与えてもらうこともない。だから自分の若さは終わってしまった。そう思う。

 

4月からちゃんと、遠くの街で大学生になる人はちゃんと大学で美しい恋人でも作るんだろう。その恋人のツイッターを、なんか見つけちゃって、そこには2人の自撮りとか、見覚えのある指先とかが載ってて、鬱になったりしたくないな。全くしたくないし、そんな画像を上げちゃう人を、恋人にするような人でもない気もするけど、というか書いてて辛くなってきたな。ショックで1週間くらい、泣き続けてしまう。こんなことを考えると、詰みまくってることに気づかされるけど、それでも生きるしかないのでした、いや死のう😇

 

春は来ません

 

今日は、合格発表の日だった。昨日の夜は、発表される時間がわからなくて困惑していた。

 

そして、今日朝6時過ぎに目が覚めて、結局ひどいドライアイで目が完全に開かなかったため、二度寝をした。そこで夢をみた。

 

夢では、友人と合格発表を待っていて、友人が『合格発表14時からだよ。』と言っていたのが印象に残っていた。起きて、調べても合格発表が何時かという情報は結局得られなかった。

 

というわけで、ああ多分見た夢はお告げで、14時に発表なんだなと思って、ドキドキしながら待つことにした。

 

本を読んでいたら、11時頃、知らない携帯の番号から電話がかかってきて、おっ詐欺サイトかと思って、出ないでスルーして、よくよく確認したら、卒業した学校の担任の電話番号だということがわかったので、折り返してかけ直した。

 

 

合格発表の絡みだろうなと思ったけど、落ちてたよねって悲しげな声で言われて、落ちてたのかーとなってしまった。これは夢ではなかった。

 

落ちてたか知らなかったけど、知っているふりをしたし、合格発表の時間をまともに把握してなかったり、ついでに落ちてたり、本当に自分は駄目な人間だなとつくづく思った。

 

後期も受けに行くということを言ったら、頑張ってこいとあたたかい言葉をかけられた。胸がきゅんとなりました。

 

 

自分には苦しくなく楽しく学問をやりたいという理想があったのですが、それはいつのまにか苦しくなく、楽に生きたいに変わってしまっていて、その結果怠惰な生活を送り、こんなことになってしまったのだと思う。  

 

 

誠実さが足りない、行為の覚悟が足りない。

どこに置いてきたのか、もともとなかったのか。分からないけど、今はどこかに落ち着かせるべきだし、やらねば。シュタインズゲート見てる暇じゃない。

 

感情自覚

 

  ノートはガリガリと気合い入れて書くけど、結局見返さないから、意味がなかったりして、まともに見返したノートはほとんどない。

 

そういう見返さない性格のせいで、ただでさえ弱々しい友人関係はぼろぼろと崩れていくし、暇なくせに自分から連絡を取るのも稀だし、これからこのだらしのなさで痛い目に合うんだろうなという気もしている。

 

自分はちょっとした日記のようなものを書きためている。一昨年の1月くらいから、主に紙のメモ帳と、携帯のメモに記録してる。

 

書き始めた理由は、中学生の時に使っていた手帳が発掘されて、そこに書いてある文章に引っかかるものがあったから。時間の経過によって生まれた深みのようなものにとらえられたから。

 

つまり、ふと思ったことを書いておけば、読み返して何かの役に立つだろうと思ったからだ。以前の自分の書く日記というのは、今よりも気取っていて、過剰な自意識にまみれていて、正直見てられないくらい恥ずかしい。ノートはただ面倒で、その辺りに転がる石のように見過ごすものとしての見返さないというスタンスだったけど、これはもう痛い自分を2度と見たくない拒絶で見返せないものだった。

 

昨日、今日と見返さないと気が済まないものがあって頑張って読んだ。好きな人とご飯に行った日のことを書いたものだった。もう、ご飯に行った日から1年が経っていた。自分は、好きな相手と2人でどこか行ったことが今までなかったので、やっぱり今思い出しても、最高の気分になれるし、また行きたいなあとか思うのであった。

 

 そして、好きな人とはどうにもなれないので、これからも自分が好きである限り、好きな人っていう肩書きが変わることはないって感じだ。