タイトルマダイ

人はいつか死にます。みてください。

 

 どこかは言わないけれど、コンビニで買うチキンの味が全部同じだという話を親としたことがある。実際、自分も同じだなと思っていた。

それでも、そこでの同じ味という言い方は、正確ではなくて、同じ味みたいだというような雰囲気で使っていた。

 

 

 

自分たちには、違いをはっきりと感じられることが、評価されるという状況がなくはない。誰かが同じだと言った、2つとかそれ以上並べられた作品の違いを、説明できる力が求められることがある。

 

その並べられた作品に、コンビニのチキンはない。じゃあなんなのかと言ったら、古典とか、芸術とか、安くはない料理なんだろう。人はそれらを見分けられる力を高い感性といって、もてはやすし、あるコンビニのチキンの味が違うことを主張する人には、そんな言葉を使わないで、もっとずっと汚い言葉を与えるんだろう。それを、なんだかなーって思うけど、自分もそうやって生きているし、もしかしたらこの主張は全部大げな勘違いかもしれない。それでも、綺麗な女の子は綺麗で、色んな花とか言葉が与えられてる世界なんだから、なんも間違ったこと言ってないって信じたい。

卑屈さ、透ける傲慢さ

 

     文章を書くと、おかしいと指摘されることが多くて、読むのも、書くのも嫌いじゃないのに、それを上手く扱えないでいた。

今も変わりのないことだし、 過去に書いたものは読み返すと、なんてひどいんだろうと頭を抱える。でも、その時は、書くしかなかったんだとも思うようになった。これもいつか読み返して、同じことを思うんだろう。

 

 最近は、ノルウェイの森を読んでいる。

 

ノルウェイの森は、2016年の(もう一昨年のことなんて不思議。) 秋に1度読んだ。

前も書いたと思うけれど、すごく気に入った部分は日記を書いてるメモ帳に写経したりしていて、思い入れのある作品だったと思う。というか、自分で言うのもおかしいけれど、10代の、自意識が異様に高くて、ひどく憎いと思う人と、愛したいと思う別の人が存在していて、自身は傷つきやすく、また相手も傷つけがちな人に、この作品を与えて、思い入れのある作品にならないということは、あるんだろうか。

 

 読み返すといえば、漫画くらいだったけど、小説も悪くなかった。当たり前だけど、色んな発見がある。厚みをもってそれに向き合える感じがするし、自分はそれをいい事だと思ってる。

 

その厚みというのが、主人公のワタナベくんが好きな人に似てるなあと感じたことだったりする。さっき書いた、すごく気に入った部分というのも、当時、自分が好きな人と重ねた部分な訳だし、その時は部分的に重ねたけど、今回はワタナベくんそのものに好きな人を重ねて読んでた気がする。

側から見ると、無感動というか、他人に興味なさそうとか、春とか秋とかを好みそうとか、こう書いといて、ワタナベくんと好きな人のことを同時に書いてしまってよくわからなくなった。そして、これは自分の押し付けた勝手すぎるイメージで、この書いたことが誰にも読まれてないことは分かってるにしても、好きな人だけには読んで欲しくないなとか考えた。恋人になってくれるなら話は別だけどとも考えた。 

 

全然会ってなくて、この前数えた時は75日会ってなかったことになってたけど、記録はどんどん更新されてる。このまま一生会えないんじゃないかな。そして、相手はそれをどうとも思ってないんじゃないかな。こういう時は、一緒に帰ったことを思い出して、あの人と別れた後、自分の口の端のゆるさは、本当凄まじいものだったけれど、あの人もそうだったら良いなと思うことにするのでした。

 

またゴミを生み出してしまったね。

早く殺してね、人生。

 

人に会えない。

 

人に会っても言葉によって、自分のいい加減な態度で、相手を傷つけてしまうし、自分も傷つけたという罪悪感で、傷ついたような気になってしまう。

 

傷つけてしまうのに、1人の時には、心が温かくなり、素直に笑える人と話をすることや、一緒に時間を過ごすことを考えてしまう。時間をかけてやれば、実現できるような気もしてくるけど、今は時間をかける前に全ては終わってしまいそうだし、そういう時期じゃない。 

 

毎日同じことを繰り返してる。毎日同じことを繰り返してるだけなのに、ちょっとした出来事に動揺する。生まれてきたことが、大きい失敗に思えてくる。

 

誰かの役に立つことで、評価を得ることが人生の目的のような気がしていたのに、誰も見ない誰の役にも立てない、汚れた文章を書き、何もしないで何もなれないと嘆かなくても、生きていけるようになりたいね、本当に。

 

最初から、読み返そうと思ったら気持ち悪かった。自分自身の容姿で行動で、こんな文章を書いてるなら、本当に他人になんて言われるかわからないよ。実体を消せ。誰にも殺されることなく早く死ぬんだよ。

無題

 

徒歩で帰宅をしていたら 、目の前に信号待ちをしていた4人グループがいて、そこを避けて、 自分が通りかかった時に、『ブサイク!!』と大きな声で1人が言い放った。後から笑い声も聞こえた気がする。

 

それが大きな声だったことにもびっくりしたし、自分に言った言葉なのかと思ってひどく不快な思いをした。

誰に言ってたかの追求はもうできそうにもないことだけど、その出来事があってから、家に帰る途中悶々と考えることになったし、家に帰って、昼寝をしても浄化されることはなかった。

 

自分にとってもうこれは悪意だ。世の中には理由のない悪意が溢れてる、まさにそうだ。そうだ。外に出るのをやめよう。早く死のう。自分が何か考え事をしても、それは考え事というだけで、外に出たら無力なんだろうと思わせるに十分だった。早く生きるのをやめよう。

 

最近はうまく眠れなくて、傷つきやすい。これは自分が悪い。でも根本は自分が生まれさせられたことだし、自分悪くないとも思うんだ。

明るく思考をしたい

 

ただ心配されたいだけという感情を持て余して、祝日もやってる病院に行かなかった。腕がだるかったのは治ったけど、今度は頭が痛い。しかも同じ側が痛むので、まずいかもしれない。でも、自分はひどく誰かに心配してもらいたい、親には病院に付き添ってもらいたいと漠然と思うだけだった。

 

昨日から、深く自分のことを考えると涙が出てしまう。前は、泣く理由なんて、好きな人に振り向いてもらえないとか、家族の煩わしさだったのに、自分がこれからくだらない人生を歩むのかと思うと悲しくてたまらなくなる。

 

死んでも誰かに評価されるような人になりたい。それ相応の努力をしてないのは事実だし、それでも、心が晴れ渡っていたとき自分が空想したものと、いま絶望しながらも見ている先は同じで、ひたすら後ろ向きな考えかたをしてしまう。立派になれた所で、生きてた意味があるのかと考えてしまう。よろしくない。

 

こんな馬鹿馬鹿しいことを考えてるから、自分は昨日も今日も明日もどこにも行けない。何にもなれない。何にも与えられない人間を続けてしまう。

 

明るい話を書くと、『〜なのだ』という口調で自分が書くと、ハム太郎みたいで威厳の欠片もない。そういえば、いつからかこんな風に自虐ができなくなっていた。自分を守りすぎて駄目になってたのかもしれない。道はこじ開ける。

ねむねむねむ

眠いとか、睡眠とか、寝ることに関してものを言ったときに自分が1番正直なことを言えてる気がする。

 

好きな人と特別な関係というものになりたいという欲求があるけれど、たまにふと好きな人が本当に好きかを悩む。お腹が空いたし何かを食べたいという欲求があるけれど、その何かにも好き嫌いがあって、極度に飢えてない限りなんでもいいわけでない。

 

こういう感じに、言葉がふさわしいか分からないけれど、選択肢があったうえで行動しないといけない。けれど、寝ることに選択肢はない、ただ一直線に進む。

 

試験前夜に、少しも勉強してなくて本当に寝ていいんだろうかとなることがあっても、それは寝ることが問題なのでなく、勉強してこなかったことが問題だ。起きているときに不眠症になることはあっても、寝ながら不眠症になることはない。寝ることは正しい、正しくないという次元にいない、絶対的なものと考えることができる。

 

そう思うのは、自分は眠りに落ちる瞬間を体験したことがないからかもしれない。起きている状態から、寝ることに中間が意識の中で存在したことは今までないと思う。スイッチを切るように、起きるから、寝るに変わる。もちろん寝るから、起きるに変わる。起きるから寝るときに、自分たちには目の前に困難があることがたくさんある。そこで葛藤をする。葛藤をしないといけないようになっている。その葛藤している時に、『眠たい』と口にする。

 

さっきも言った具合に、『眠たい』と眠たくもないほかの場面で口にする時、また寝たふりをするときそれは、目が覚めている時に起こってることに困難があるからなんだろう。宇治拾遺物語の「児のそら寝」のように。

 

言葉で伝えきれないことはありすぎて困る。途方に暮れる。まったく正しいことが書けてないと焦ることがある。文章がおかしいと指摘されることがある。この流れを書くのにもつまずくところがあった。ふと、寝たいという、眠たいと思う正直さから、広げられるような限りなく正しいに近い文章を書ける場所があるようなそんな気もする。

話の話

 

外に出ていない。外に出ていなくても、自分の持つ色鮮やかな世界に没頭できる人がいて、その人たちはきっと孤独に強いんだろうと思う。孤独に強い、ただ1人でずっといられることができるなら、こんなことをしたら気がおかしくなると思うことがないのだろう。新興宗教をやってる人のツイッターを見て自分もこうなるかもしれないと複雑な気持ちにならないだろう。

 

学校にいるとき、自分は多くは1人だ。そもそも1人でいる時間が多いのもあるし、精神的にも1人だといくつかの状況を前にして思うことがある。よく話すクラスの人とにある、できてしまった深い深い溝(だから、一昨年の10月半ばをうつすカメラロールを見ると自分は悲しくなる)や、話は楽しいけれど自分の喋り方に不自然さがあるんじゃないかと削られてく感じの人たちに申し訳ないと思いつつもこう生きてくことしかできない。偉そうに開き直ってしまってる。

 

話を元に戻すと、自分は孤独でいられると思ってたら、実は全く孤独が平気じゃなかった、自身は何かしらすり減ってるような気がしてもその人からまた栄養ももらってたみたいだ。本当に自分は何も見えてないようだし、申し訳ない、申し訳なさすぎる。不快な思いをさせないようにできる限りやって生きるから、話をしたい、話をしてほしい。