これから色々書くんだと思う。

人はいつか死にます。みてください。

無題

さっきは物置で泣いていた。泣きながら、誰か見知らぬ人が突然入ってきて自分を殺すような素振りを見せてくれればいいと思った。そうすれば、自分は生きたいと思うこともできたし、家族にすがろうという気にもなれただろうから。

 

家族は自分を大切な人として、将来のある者として扱うことを諦めたみたいで、接し方の節々にああ早く死んだ方が自分の心は楽なんだろうなと思わされる。

 

早く独り立ちをしたいな。

それでも、誰かと家族になりたいような気がするというジレンマを抱えてるが、自分の能力は低いし、まともに愛せる自信ないし、知った分嫌いな所が出てくるんだろう。

受け入れて生きてくらいなら、そこに幸せがあろうが1人の方が楽だと思うし、それでも世間体を気にする自分は誰にも愛されないで1人で生きてると思われるのも嫌だ。可哀想な人と誰かに思われるのが嫌だ。それで良いんだよって言ってくれる人もいるかもしれないけれど、大多数に思われないと安心がない。大多数に受け入れられない人間が何を言ってるんだろう。そんなことを悶々と考えて、うわべだけで愛されて、若いうちに死んでしまいたいという答えに感情的になった時はたどり着く。

 

 

今日、起きてしまったことも、憎くて仕方がないけれど、それに伴う原始的な感情は生きてやろうなんて気持ちもどこかへ吹っ飛んでいくんだから、そんなのものに命を握られてると思うと悔しくてたまらない。

 

これから、例えば学問の楽しさに気づいてこれをやらないと死ねないなんて思える日が来るかもしれない。そんな自分でも、例えば誰かに浴びせられた罵声や、後頭部を殴られるといった暴力行為で一気に死にたいと思うんだろう。人とともに生きることは辛く厳しい。本当に駄目になったら、自給自足生活を送ろうね、いや自殺か。

また会おうと言ってくれ

クリープパイプの曲『エロ』に「今日は明日 昨日になる」と続く歌詞がある。小学生のとき、まさにこの「昨日」とか「今日」とか「明日」という言葉には、永遠さえも見え隠れする気がした。これから人類が終わらない限り、「昨日」も、「今日」も「明日」もあって、または同じ意味を持つ言葉がある限り自分たちはそれらにさまざま思いを馳せられることはおもしろい。

 

今生きている。この文章を書いてる。

 

その行為は、というかあらゆるこれから行われる行為は、当たり前に生まれた時からの延長にあって、長く長くなっていく。

その長く長く続いていくことの不思議さというか、退屈な授業を受けていることさえもその一部であることに気づいて、すごい発見をしたような気分になった。

 

その積み重ねで、気づいたら受験生の自分は試験日を迎えているだろう。朝起きたら、1日1日と当日は近くなっていってる。時は不可逆だから。それでも、生きてたら試験当日の次の日もまたやってくる。未来のある自分たちは、死んで終わりを迎えた人たちより確実に可能性がある。だから、超えられない壁に、変えられない事実に、苦しいと感じる。それでも明日は来るから、幸せに生きたいなら、そこに希望を見出すべきなんだろう。こういうことを考えてると、神を信じて生きることはきっと楽なんだろうとか思ってしまうな。

無題

誰も見てないと思いますが、人を不快にさせる表現があります。

よく親を反面教師として見てきた。

見ざるを得なかった。成長するたびに自分が家族に向ける目は異質なものとなっている。みんなどっか変だなんて言葉は、そりゃそうだけど自分はあなたのこともわからないし、あなたにも自分はわからないだろう。ただ、ああ自分はこんな人たちにはならないようにしようと決意を重ねてく。ただ顔が可愛いだけの兄弟、ただ本をたくさん読んでいて知識をひけらかしてる父親、いつも鬼の頭を取ったような発言をしてくる祖父やいつも解決を先延ばしにしがちな母を、その中の何人かの精神疾患のある家族たちを、歌につづれるくらいには愛せたらいいと思う。誰かが死んだりしたら家族の絆は深まりでもするのか。そんなことはなさそうだ。

 

自分でも、誰かが言ったことからでも、人のせいにしてはいけないことはわかってる。それでも、事実として小さい頃から人を好きになってもどれだけ愛しても、この人と結婚することは自分は家族がああだから嫌がられるんだろうなとか思ってしまう。よく考えたら、異常だと中学生くらいの時に気づいた。身軽になりたい。縁を切りたい。こんなに家族を愛せないのに、好きな人と特別な関係になりたいし、一緒に暮らしたいし、好きな人となら子供すら欲しいと思ってしまう自分も大嫌いだ。生誕の災厄、生存の災厄、欲求の災厄。 

 

来世があるのならば、来世があるならば、本当来世を避けたい。来世を拒否したい。

強い妄想。

窓を開けると心地よい風が入ってくるような暑くも寒くもない日の17時半に、夕日の入る窓際のソファで、肌触りのいい、素敵な自分に似合うワンピースを着てうつらうつらとしていたい。

そしたら、好きな人がそこに影をつくって、そっと、そして難なくだき抱えてベッドへ運んで欲しい。好きな人の温かさや、布のワンピースの肌触りを強く感じていたい。好きな人は、その後テーブルに置かれてるパソコンをいじってるんだけど、すぐ眠くなって、2人で結局寝てしまって起きたら21時で、晩ご飯作ろうってなって、なぜだか手間のかかる餃子を2人で作り始めるんだ。お気に入りの音楽をかけながら、とくに会話がある訳でないけどお互いに満ち足りた気分の中で。

一瞬の痛みと長く甘い快さ

何かに悲しんでいない自分は、悲しんでる自分より醜い。失うものなんてほとんどないくせに、優柔不断なままだし、また悲しい時に自分が書いた文章が、意外にも引き込まれるものだった、今は書いていても消化不良で終わっている。

それは心が平穏な時に、創作活動は捗らないと思っているからかもしれない。心が辛いとき、文章を泣きながら書いて少し落ち着いたり、自分には何もないと思いながら描く絵に意味があると考えてるのかもしれない。

悲しみを得たいなんて傲慢だし、悲しみは降ってきて避けようとしても避けられないものだから、その痛い思いをして生まれたものが、創作物であるならば、そんなものはいらない。

 

なんて思えたらなあ。思えないからこうなんだよ。ずっとそうだよ。

 

ずっとずっとと考えていたら、早く死にたいと思ってしまった。悲しみと同じように死も避けられないね。避けられない悲しみを終わらせるのも死だ。悲しみのない悲しみを終えたいけど、終えたくない。

 

 

なにも分からなくなってきた。

無題

書店にて、ネタバレ厳禁と書かれてる本が並んでるのをみると、それはきっとストーリー自体に面白さのある本なんだなと思う。

だけど、そんな売り文句の本ってむしろ買う気失せませんか、挑発されてる感じがなんだか気にくわないし、後、これは自身の認識が前提にあるけど、ストーリー自体に面白さはあっても他に褒められるところがないから、ネタバレされたら困るのでは?と疑ってしまう。

 

それなら自分は、いくら内容を知っていても、そこに素敵なものがあると確信して、手にとってしまうような本を読みたい。いくら名画と言われて、写真で飽きるほど見ても、目の前に立って見ることが全く違うことみたいに。

だから、本当に自信があるならそんな悲しい売り方をしない方がいいと思うという話。

ダラリ

過去の自分の文章があまりにも他人のように思えるとき、最近は落ち着いたのか、思いを馳せるなんてこともなくなったけど、それは紛れもなく自分が自分であることが不思議だと思う感覚に似ている。

自分が自分の顔を持って生まれてきたこと、そして自分に自分の家族がいること、自分に好きな人がいるということを強く自覚すると、その反動で溶けるみたいに自分という存在の危うさに気づいて、足元から重たく沈むような感覚に陥る。このことでたまに不安になったりした。生きる気力をなくしてしまうのではないかとか考え過ぎてしまったから。

とにかく、過去に書いた自分の文章を今の自分が好きだと思える感覚は良い。その文章と向き合ったとき、自身には新鮮な気持ちとそれに比べたらごくごく小さな懐かしさがある。だからこのブログもいつかそうやって読めたらいい。