タイトルマダイ

人はいつか死にます。みてください。

無題

 

徒歩で帰宅をしていたら 、目の前に信号待ちをしていた4人グループがいて、そこを避けて、 自分が通りかかった時に、『ブサイク!!』と大きな声で1人が言い放った。後から笑い声も聞こえた気がする。

 

それが大きな声だったことにもびっくりしたし、自分に言った言葉なのかと思ってひどく不快な思いをした。

誰に言ってたかの追求はもうできそうにもないことだけど、その出来事があってから、家に帰る途中悶々と考えることになったし、家に帰って、昼寝をしても浄化されることはなかった。

 

自分にとってもうこれは悪意だ。世の中には理由のない悪意が溢れてる、まさにそうだ。そうだ。外に出るのをやめよう。早く死のう。自分が何か考え事をしても、それは考え事というだけで、外に出たら無力なんだろうと思わせるに十分だった。早く生きるのをやめよう。

 

最近はうまく眠れなくて、傷つきやすい。これは自分が悪い。でも根本は自分が生まれさせられたことだし、自分悪くないとも思うんだ。

明るく思考をしたい

 

ただ心配されたいだけという感情を持て余して、祝日もやってる病院に行かなかった。腕がだるかったのは治ったけど、今度は頭が痛い。しかも同じ側が痛むので、まずいかもしれない。でも、自分はひどく誰かに心配してもらいたい、親には病院に付き添ってもらいたいと漠然と思うだけだった。

 

昨日から、深く自分のことを考えると涙が出てしまう。前は、泣く理由なんて、好きな人に振り向いてもらえないとか、家族の煩わしさだったのに、自分がこれからくだらない人生を歩むのかと思うと悲しくてたまらなくなる。

 

死んでも誰かに評価されるような人になりたい。それ相応の努力をしてないのは事実だし、それでも、心が晴れ渡っていたとき自分が空想したものと、いま絶望しながらも見ている先は同じで、ひたすら後ろ向きな考えかたをしてしまう。立派になれた所で、生きてた意味があるのかと考えてしまう。よろしくない。

 

こんな馬鹿馬鹿しいことを考えてるから、自分は昨日も今日も明日もどこにも行けない。何にもなれない。何にも与えられない人間を続けてしまう。

 

明るい話を書くと、『〜なのだ』という口調で自分が書くと、ハム太郎みたいで威厳の欠片もない。そういえば、いつからかこんな風に自虐ができなくなっていた。自分を守りすぎて駄目になってたのかもしれない。道はこじ開ける。

ねむねむねむ

眠いとか、睡眠とか、寝ることに関してものを言ったときに自分が1番正直なことを言えてる気がする。

 

好きな人と特別な関係というものになりたいという欲求があるけれど、たまにふと好きな人が本当に好きかを悩む。お腹が空いたし何かを食べたいという欲求があるけれど、その何かにも好き嫌いがあって、極度に飢えてない限りなんでもいいわけでない。

 

こういう感じに、言葉がふさわしいか分からないけれど、選択肢があったうえで行動しないといけない。けれど、寝ることに選択肢はない、ただ一直線に進む。

 

試験前夜に、少しも勉強してなくて本当に寝ていいんだろうかとなることがあっても、それは寝ることが問題なのでなく、勉強してこなかったことが問題だ。起きているときに不眠症になることはあっても、寝ながら不眠症になることはない。寝ることは正しい、正しくないという次元にいない、絶対的なものと考えることができる。

 

そう思うのは、自分は眠りに落ちる瞬間を体験したことがないからかもしれない。起きている状態から、寝ることに中間が意識の中で存在したことは今までないと思う。スイッチを切るように、起きるから、寝るに変わる。もちろん寝るから、起きるに変わる。起きるから寝るときに、自分たちには目の前に困難があることがたくさんある。そこで葛藤をする。葛藤をしないといけないようになっている。その葛藤している時に、『眠たい』と口にする。

 

さっきも言った具合に、『眠たい』と眠たくもないほかの場面で口にする時、また寝たふりをするときそれは、目が覚めている時に起こってることに困難があるからなんだろう。宇治拾遺物語の「児のそら寝」のように。

 

言葉で伝えきれないことはありすぎて困る。途方に暮れる。まったく正しいことが書けてないと焦ることがある。文章がおかしいと指摘されることがある。この流れを書くのにもつまずくところがあった。ふと、寝たいという、眠たいと思う正直さから、広げられるような限りなく正しいに近い文章を書ける場所があるようなそんな気もする。

話の話

 

外に出ていない。外に出ていなくても、自分の持つ色鮮やかな世界に没頭できる人がいて、その人たちはきっと孤独に強いんだろうと思う。孤独に強い、ただ1人でずっといられることができるなら、こんなことをしたら気がおかしくなると思うことがないのだろう。新興宗教をやってる人のツイッターを見て自分もこうなるかもしれないと複雑な気持ちにならないだろう。

 

学校にいるとき、自分は多くは1人だ。そもそも1人でいる時間が多いのもあるし、精神的にも1人だといくつかの状況を前にして思うことがある。よく話すクラスの人とにある、できてしまった深い深い溝(だから、一昨年の10月半ばをうつすカメラロールを見ると自分は悲しくなる)や、話は楽しいけれど自分の喋り方に不自然さがあるんじゃないかと削られてく感じの人たちに申し訳ないと思いつつもこう生きてくことしかできない。偉そうに開き直ってしまってる。

 

話を元に戻すと、自分は孤独でいられると思ってたら、実は全く孤独が平気じゃなかった、自身は何かしらすり減ってるような気がしてもその人からまた栄養ももらってたみたいだ。本当に自分は何も見えてないようだし、申し訳ない、申し訳なさすぎる。不快な思いをさせないようにできる限りやって生きるから、話をしたい、話をしてほしい。

Nouakchott

   

ブログタイトルをタイトルマダイに最近変えた。だから、タイトルマダイっぽい記事のタイトルにしようと思ったら、モーリタニアの首都名になった。モーリタニアにはタコと砂漠がある気がする。モーリタニアの首都は、誰かがするくしゃみのような趣があるのでとても良い。

 

そして、ここからは全然関係ない話題に突入する。

 

現実で言うところがなかったから、自分の思ってる事をだいたい言える場所をネットで作っていたら、知り合いに特定されてしまって、それをきっかけにネットでも自分だけの場所にのめり込むように引きこもるようになった。

 

自分だけの場所というのは特定される前から存在はしてた。例えば、鍵をかけてるので、フォローしてる人もフォロワーも0人の誰も見れないツイッターアカウントで誰かが見てる体で呟くような場所や、他人との会話を想像して、1人で返事までを考える自分だけのライングループとかがそうだった。

 

そういう事をやってると、自分がいつか気が狂うんじゃないか思う。泣きそうになる。狂った状態は想像できないからすごく怖いので、絶対なりたくないのに、そのネットでの1人の場所での行為がやめられなくなってきていることにも気づく。

 

誰か見る可能性がない所で誰かに向けて何かを書くのと、可能性がまだある所で書くのはやっぱり違うと思うようになった。俗にいう病みツイートもそんなことが本能的に分かってるのかもしれない。誰かがそれを見て不快になることで病みツイートなるものをした人は救われるのかもしれない。この構造はすごく厄介だ。知ってもらいたいと爆発しそうなとき、人に頼りたいと心の底から思う時に、SNSをまともに使えずに周りが受験まっただ中だと地獄という話だった。

 

そして、マズロー欲求段階説大好きな人間なので、自分は何も間違ってないとも信じる(だから特定されるんだぞ)

無題

深夜に見たい映画がやってたし、1時くらいから本を読み始めたりしていて、4日前から寝る時間が健康的なものでなかった。昨日は(今日は)2時台に寝たけれど、ちゃんと今6時半に起きた。試験のために生活は取り戻さないといけない。

 

相変わらず好きな人からラインも来ないし、年賀状も来ない。グループラインも見てないみたい。家も近くでないから、この世界に存在してるかも分からない。でも、自分の好きな人はスマホ手放してるタイプの受験生じゃないよなと思うから、ライン送れば返信くれるんだろうなとも思う。送ってしまったら、それが筒抜けになるみたいだし、自分の自意識はある点ですごく堅いと信じてるのでしない。そして、それで何度か失敗してきた。稚拙な文でどうでもいい話をしてしまった。

 

人と話をしなすぎて、というより話はするけど家族と慎重に話をするということをしなすぎて、他人と話をすることが苦手なのかもしれないと昨日ふと思った。文章にしたいという気持ちはあって誰も見てないようなものを書いてるのに、声に出して伝えたいことを言葉にできない。雰囲気で乗り切ってしまう。好きな人は好きだし、話すこともいっぱいあるはずなのに、話に間がいっぱいできてしまって、一緒に帰れても時間を持て余してしまう。どうせもう会えなくなるし、一緒に帰れただけ幸せといって下を見てこれから生きてくと思うと少し辛い。

 

今日はちゃんと起きて自分は偉かった。今日も誰も見てない所だけど、いつか誰かが見るかもしれない所で、恥ずかしい自分をなぜだか書いた。まだ3日しか経ってない2018年も絶望的に飽きてきたけど、死なずに生きてきたい。

 

生活と断片

外に向けて書くことを続けようとしていたけれど、何も話すことがないと思うくらいに自分の生活は同じことを繰り返していて、読んでる本は前と違う所を開いてるくらいで、Twitterで明日になれば記憶にほとんど残らないようなことを1時間以上だらりと見ていたりする。

 

それはそれで満足なんだけど、そう思うのは自分が刹那的だからだろうし、それと逆の人生という尺で自分を見てしまう時があって、その時になんて人生だろうとなる、生まれてきた意味なんて動物を見てればないような気がしてくるけれど、自分は人間なら生まれてきた意味があって良いだろうとも思う。

 

ここから話を広げるつもりはなくて、それでも少しは前の話と噛み合うような、合わないような好きな人の話をしたいと思った。けれど、前置きに思考が奪われてしまって、何が言いたかったかよく思い出せない。初詣が絡んでいたけれど、うまく言葉にできないだろう。そういえば昨日から読んでた本は読みきって、4時間前には映画も見たので、徹夜してるみたいな状態の自分は寝ないといけないのかもしれない。おやすみ。